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豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)

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Photos: 豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)

Photos: 豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)観臓祈念碑 Photos: 11.02.19.豊国山 回向院・小塚原刑場跡(荒川区南千住)

アップに際し改めて……
豊国山 回向院
宗派、浄土宗
本尊、阿弥陀如来
開基、?
開山、弟誉義観
創建、寛文7(1667)年、はじめ常行堂

豊国山 延命寺
宗派、浄土宗
本尊、阿弥陀如来
開基、?
開山、?
創建(独立)、昭和57(1982)年


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1Rm79KFD1ROXpubMspS2px71HndVM5btU&usp=sharing



mixiアルバム「南千住回向院・延命寺 小塚原刑場/吉田松陰・橋本左内/家紋/」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000012064019&owner_id=32815602

2011年02月20日 01:53
11.02.19.
●小塚原刑場(こづかっぱら、こづかはら)――
江戸時代から明治初期にかけ東京都荒川区南千住2丁目に存在した刑場。江戸時代には江戸の入口それぞれに存在した大和田刑場、鈴ヶ森刑場とともに三大刑場といわれた。
刑場の広さは間口60間、奥行30間余。刑場跡は現在の南千住駅のすぐ西側、常磐線と日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内に位置する。刑場当時の展示物・資料等は現在公開されていない。資料は荒川ふるさと文化館にて不定期で展示されることがある。
慶安4(1651)年創設。死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるくらいだったため、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったという。
この刑場での刑死者を弔うため、寛文7(1667)年に本所回向院の住職である弟誉義観(ていよぎかん)が隣接する場所に常行堂を創建した。これが後に南千住回向院となり、現在も橋本左内などの刑死者の霊を弔っている。回向院は常磐線建設の際に線路が敷地中央を通過したために分断され、その際に線路の南側は延命寺として独立。刑場跡は延命寺内に位置する。山号は両寺とも「豊國山」。
文政5(1822)年、南部藩 相馬大作(下斗米秀之進)がここで処刑されて以後、国事犯の刑死者の死体はここへ埋めることになり、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など、安政の大獄で処刑された志士たちもここに埋葬された。
寛保元(1741)年に高さ3mほどの首切地蔵が建てられる。
明治初期に西欧と対等の人権基準を設ける必要に迫られた新政府によって廃止されたが、創設から廃止までの間に合計で20万人以上の罪人がここで刑を執行されたという。


※安政の大獄──
1858年、朝廷より水戸藩へ「戊午(ボゴ)の密勅」がくだった。幕府の頭越しに諸藩へ勅書を送るなどありえなかった。そのため幕府は、尊攘派の志士や公卿の家臣を次々と捕縛し百余名を処罰。死刑8名。

※吉田松陰(寅次郎)──
孟子、武教全書、日本外史が中心だったが、教科書も講義も特定せず柔軟に変更した。
「私は教授はできませんが、君たちと一緒に研究しましょう」
→もうちょい松陰先生を知りたい人はフォトへv

●明和8(1771)年、ターヘル・アナトミアを手に入れた蘭学者杉田玄白、中川淳庵、前野良沢、桂川甫周らが解剖図の正確性を確かめるために小塚原刑場において刑死者の解剖(腑分け)に立ち合い、図の正確さに感嘆したことは歴史的に有名な出来事。回向院にはこのことを記念して(昭和34年に)寄贈された観臓記念碑がある。

●昭和38年3月31日東京都台東区入谷町で当時4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され日本中を震撼させた。入口に立つ地蔵尊は、戦後最初の児童営利誘拐殺人事件を慰霊する「吉展地蔵尊」である。被害者吉展ちゃんの遺体は円通寺の墓地で発見され、地蔵が建立された。(写真がない……!(TOT) なんてこと……)

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