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更科姫館跡(韮崎市)

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写真: 更科姫館跡(韮崎市)

写真: 涙の森(韮崎市) 写真: 願成寺(韮崎市)

mixi記事コピペ――
「更科姫館跡/涙の森史跡(韮崎市上ノ山)」
2014年04月05日 02:30

14.03.28.
●更科姫館跡――
すべて偽りか? 諸説あり、1級史料ではない。
石碑より――
北信濃の領主村上義清の家老落岩寺馬介の一人娘、1519年に信濃国更科村に生れた。文武両道に優れ信州一の女性剣士とし、又教養を高め美貌と共に、日本の女性三傑の一人として高く評価された。相木采女介依田幸雄を結ばれ、夫は武田信玄の家老馬場美濃守の身代わりとなって名を相木美濃守信房と改め、遠州諏訪原城主となり15年間の安泰を守り抜いた。その間一人息子幸盛(後の山中鹿之助)を養育する。京を目指す15歳の幸盛と別れ、武田勝頼の命により高天神城を落とした夫信房と共に城代として8年間城を守ったが、家康の猛攻に憤死した夫の意思を受け家臣達を助けるため必死の苦境を乗り越え、富士川より甲斐に連れ帰り、道々家臣の安住を求めつつこの地に居を構え天満宮を祭り、夫、息子、家臣の回向をしながら生涯を閉じる。明治8年から昭和12年まで上ノ山と岩下を更科村と称した。


日本の女性三傑に数えられていない。
生地とも墓地とも。
埴科姫とか。
山中鹿之助の実母なわけがないとか。
実在まで疑わしいとか┐(`△´≡`△´)┌



●涙の森――
北条夫人の悲嘆を伝える場所は3ヶ所か? このあと岩殿山城へ向かう道筋には、同市内の回看塚(みかえりづか)、甲斐市の泣石とある。
ついでに勝頼公の腰掛石的なものも複数続く。



甲斐国巡回マップ
https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1VY8nmTna0GP6H1hoaMPR0a1JsgU

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