雲興寺(佐久市)
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参道。
熊注意でーす∠(`´)ビシッ
mixi記事コピペ――2015年03月01日 11:16
15.02.24.
●雲興寺──
城源山 雲興寺(うんこうじ)
宗派、曹洞宗
開山、顕宗全高
創建、明応8(1499)年
中興開基、笠原新三郎清繁
創建、天文10(1541)年
當山開基隆基雲興大禅定門
●志賀城――
築城年、不詳(建保年間にはあったようだ(1213〜1219年))
築城主、笠原氏?
城主、笠原氏
廃城年、天文16(1547)年?
標高880m、比高170m。
上野国国境に位置する。
これほどの著名な城跡に案内板や説明板の一切がないという………なにか理由があってなのだろう……か。
天文16(1547)年閏7月、武田晴信は大井三河守を先手として甲府を出陣。
志賀城には笠原清繁関東管領配下、上野国菅原城の高田憲頼・繁頼父子(繁頼は清繁次男で憲頼へ養嗣子として出されていた)が援軍として入城。
同24日、志賀城の包囲を開始。
翌25日、金堀衆が城の水の手を断絶。
関東管領 山内上杉憲政は、重臣長野業正の諫言を無視、倉賀野党16騎を先陣、金井秀景を大将とする西上野衆2万(3000説)を派遣(関八州古戦録)。
※前年“河越夜戦”で敗退している。
山内上杉軍は碓氷峠から信濃国へ進軍、小田井原に布陣。志賀城を包囲中の晴信は板垣信方、甘利虎泰、横田高松、多田三八郎に迎撃を命じる。
8月6日(9月19日)、小田井原合戦。板垣ら武田軍は山内上杉軍を一方的に撃破。敵将14、5人、兵3000を討ち取ったとされる。
晴信は討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の外周に並べ立てた。これに士気を大きく断たれた志賀城兵は、8月10日からはじまった総攻めに外曲輪、二の曲輪を焼き落とされ、翌日には本曲輪へ攻め込まれ、城主笠原清繁、援軍高田憲頼父子は討ち取られた。
晴信の敵兵への処置は凄惨だった。捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。
小山田信有に与えられた笠原清繁夫人は妾にされる。江戸時代に編纂された「甲斐国志」に、悲運で涙に暮れる夫人の哀話が記された。
●笠原新三郎首塚──
少し離れた県道沿いの水田内に、清繁のものといわれている首塚がある。
(寺前より300mか。)
※小田井原古戦場は明確になっていない。北佐久郡御代田町小田井までは明らかなようだが。
和宮休息で著名な中山道小田井宿。
巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing
アルバム: 長野県1 東信/信濃国
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