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山田城(山田要害・枡形城。高山村)

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写真: 山田城(山田要害・枡形城。高山村)

写真: 山田城(山田要害・枡形城。高山村)

東尾根。



mixi記事コピペ――2015年06月25日 12:01

15.06.09.
築城年、不詳
築城主、山田氏?
城主、山田氏(高梨氏)、原氏
廃城年、不詳
標高711m/比高175m。


応永年間(1394〜1427年)、山田四郎国政、その子能登守が居城していた。
応永32(1425)年、遠州出の原飛騨守隆昌が仕官、山田氏の幕下となり代々居住した。
(長野県町村誌)

枡形城および山田氏居館は東条荘山田郷にあり、往時、高井郡井上を本領とする井上氏の所領であった。
寛正6(1465)年、井上氏と村上氏とが合戦に及び、結果、山田郷は高梨氏庶家の高梨高朝が領し山田を名乗った。
※枡形城が初めて記録に登場。

高梨宗家は正高が隠居し、刑部大輔政盛が継承。政盛は庶家の山田高朝(高梨日向守。朝高?)が惣領家を無視して勢力を拡大していくことに懸念を抱き、これを誅する。
文明16(1484)年5月、政盛は山田高朝が高野山参拝で不在の山田城(枡形城)を急襲、これを陥落せしめた。山田高朝の所領を一族の将秀、高秀の両名に与え、高朝を追放とした。
(諏訪御符礼之古書)
※政盛は高梨氏中興と謳われる。

山田城には山田高梨家旧臣 原左京亮が城代として引き続き置かれた。(これは原氏が政盛に内応したと考察できる。)また山田姓を名乗ることを命じられている(?)。

武田氏滅亡後の足跡は不詳…。


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1szYFJmzPavAqrh-vwWlslTX600Q&usp=sharing

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