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金井原(小金井市)古戦場考察地

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写真: 金井原(小金井市)古戦場考察地

写真: 金井原(小金井市)古戦場考察地 写真: コメダ珈琲店 保谷店

写っているところ全面。
ほんの一部。
あくまで考察地(≧ω・)



――mixi記事コピペ――2016年11月08日 23:22
金井原古戦場(小金井市)・人見原古戦場(府中市)
16.11.08.
総じて「武蔵野合戦」、双方そのひとつ。

(→wiki)1351年(正平6年/観応2年)観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。年末に駿河で行われた両軍による薩埵峠の戦いに勝利した尊氏は翌1352年直義を降伏させ、鎌倉に入った。直義は2月に急死したが、『太平記』では、この急死に関して「毒物を口にして亡くなったという変死(もしくは毒殺)のうわさ話」があった、と記している。
1352年(正平7年/文和元年)、南朝方の北畠親房は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。閏2月15日、新田義貞の遺児新田義興・義宗は、鎌倉奪還を目指し、従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに、上野国で挙兵した。また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵した。
新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下した。南朝勢には、尊氏に反発する直義派の武将も多く参加したと言われる。尊氏は鎌倉を出て武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つ構えを見せた。南朝勢は閏2月18日に一旦鎌倉を占領したが、閏2月20日金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて足利勢と合戦を行った。双方とも相当の損害を出したと言われる。
尊氏は、武蔵国石浜(東京都台東区。場所には諸説あり)に撤退し、勢力の回復を図る。新田義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町嵐山町境)に陣を敷き、宗良親王ら信濃勢や直義派であった上杉憲顕と合流した。閏2月28日、足利勢と新田勢は、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指原(埼玉県所沢市)で合戦となったが、足利勢が勝利した。敗れた義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びた。
一方、金井原・人見原の戦いの後に南方に脱出していた新田義興・脇屋義治・北条時行は、三浦氏の支援を受けて鎌倉に入った。が、義宗勢の敗北を知り持ちこたえられないと判断したため3月2日鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。3月12日、尊氏は鎌倉を奪還した。敗れた義興と義治は越後に逃亡するが、北条時行は鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、翌1353年に龍ノ口にて処刑された。
一時は南朝方が京都・鎌倉の両方を占領したが、一連の合戦により南朝方の関東での挙兵は短期間で鎮圧された。その結果、関東における南朝方および直義派の勢力は衰退し、以後それらの勢力に鎌倉が渡ることはなかった。
上方での南朝方の動きは続いたものの、尊氏は翌年7月まで鎌倉に滞在し、関東の情勢を鎮めることに注力した。鎌倉公方基氏を補佐する執事職は空白となっていたが、畠山国清が任命され、以後足利基氏・畠山国清の体制で鎌倉府が運営されていくこととなる。(←)

参考「江戸旧聞東京百選」→ http://www.kyubunhp.sakura.ne.jp/tokyo.html
・「特選東府中情報」→ http://iwa.que.ne.jp/tokusen/higashifuchu/rekishi/rekishi04.html
Ameba「山名城」足利尊氏→ http://s.ameblo.jp/meth-spriggan/entry-12155809430.html


今日の巡廻マップ→ https://www.google.com/maps/d/edit?hl=ja&mid=1GuljqI4yQEnnad5s_7SQchJajAo

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