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春日局像(春日1丁目)区立磔川公園

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写真: 春日局像(春日1丁目)区立磔川公園

写真: 春日局像(春日1丁目)区立磔川公園 写真: 11.03.07.旧小石川町(春日1丁目)富坂

――mixi記事コピペ――
文京区春日/春日局
2012年03月19日 13:37

11.03.07.、11.03.17、12.03.02.

●春日局――
メジャー過ぎるし、謎過ぎるし、記事にするのもどうかなーって思いは変わらず。
※「麟祥院/春日局(斎藤福)」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000030909792&owner_id=32815602

父処刑後は母方の親戚に当たる三条西公国(さんじょうにし きんくに)に養育される。
これによって、公家の素養である書道・歌道・香道等の教養を身につけることができた。
後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。正成は関ヶ原の戦いにおいて、平岡頼勝と共に主君 秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者。
将軍家の乳母となるために夫の正成と離婚する形をとり、慶長9(1604)年、2代秀忠の嫡子 竹千代(家光)の乳母に任命される。選考にあたり、福の家柄及び公家の教養と、夫 正成の戦功が評価されたという。
息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられ、元和9(1623)年 老中就任、寛永9(1632)年 相模国小田原藩主となっている。

※春日局同様、彼女の縁故で出世した者――
春日局が参内できるよう画策した三条西実条(さねえだ)は、後に朝廷から武家伝奏に任じられ、最終的には右大臣になっている。子孫の玄長は、幕府に高家肝煎として迎えられ、その際、縁のあった武家名字「前田」を名乗る。
春日局が強く望んで大奥入りさせられたお万の方は、三条西家の同僚で和歌の家である六条家の娘。後に彼女の弟も幕府から高家として迎えられ、――同上――「戸田」を名乗った。
離縁した稲葉家の再興にも尽力し、浪人していた元夫 稲葉正成は松平忠昌の家老として召し出され、のち大名に取り立てられた。
家光の小姓から老中に出世した者が多く、春日局の縁者が多い。特に実子 稲葉正勝と義理の孫に当たる堀田正盛は言わずもがな。
姪の祖心尼(そしんに)とその夫 町野幸和が蒲生騒動(譜代衆)に伴い浪人した際には、祖心尼を自分の補佐として出仕させ、また祖心尼の外孫 お振を大奥に入れた。お振は家光の側室となり千代姫を産んでいる。幸和も幕府直参旗本(鉄砲頭になり同心50人を付けられ、甲斐国内に5000石を賜り、布衣の着用を許される。)として取り立てられた。

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