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永福寺跡(鎌倉市)

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写真: 永福寺跡(鎌倉市)

写真: 永福寺跡(鎌倉市) 写真: 荏柄天神社(鎌倉市)本殿

18.02.27.
ようふくじ
宗派、不詳
本尊、(考察)二階堂は釈迦如来、阿弥陀堂の阿弥陀如来、薬師堂の薬師如来の三尊
開基、源頼朝
開山、不詳
創建、建久3(1192)年

市HP→ https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/yohukuji_cg.html
(→wiki)永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建てであった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている。世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。
源頼朝は文治5年(1189年)9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
応永12年(1405年)の火災ののち廃絶した。
昭和58年(1983年)から開始された調査で、 北方から流れ込む谷川を水源とする南北200メートル、東西40 - 70メートルの園池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂を中心に南北に阿弥陀堂、薬師堂の翼廊を従えた中心伽藍が確認された。このことから、伽藍全体の空間構成は無量光院をモデルにしたと考えられる。
現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。
長らくススキが生える湿地となっていたが、史跡指定翌年の1967年度から土地の公有化を進め、2007年以降復元整備工事に着手し、2017年6月、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂などの基壇(基礎)と苑池の復元が完了し、公開された。(←)

(→湘南工科大学)建久5年(1194)までに、二階堂の両脇の阿弥陀堂、薬師堂が完成します。この三つの堂を中心に惣門、南門、釣殿、多宝塔、鐘楼、僧坊などの建物があったとされ、当時の旅日記などの文献には「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ」と形容されています。(←)

宝治元(1247)年6月、宝治合戦で三浦光村が、元弘の乱で千寿王(足利義詮)が、建武2(1335)年には足利尊氏が永福寺に陣を張っている。三浦光村が兄へ「永福寺は優れた城郭です」と伝えたと吾妻鏡に記されている。


鎌倉巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1jxb6mB3DQV4YD4D4murEy9SF9Rk&usp=sharing

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