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写真: 19.03.24.善性寺(東日暮里) 写真: 善性寺(東日暮里)松平家諸霊之墓

松平清武──
(→wikiコピペ)寛文3年(1663年)10月20日、甲府藩主徳川綱重の次男として生まれる。生母の身分が低かったため、家臣の越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)に養われて延宝8年(1680年)5月28日にその家督を継ぐ。元禄10年(1697年)11月には叔父である将軍徳川綱吉に初御目見してその偏諱を授かり、吉忠(よしただ)と名乗る[1]。宝永6年(1709年)に綱吉が没して実兄の家宣が将軍に就任すると、寄合衆に任じられた。この時に家宣と養父を偏諱と合わせて清宣(きよのぶ)に改名する。
宝永4年(1707年)1月11日、2万4000石の館林藩主として大名に列する。その後、松平姓を名乗ることを許され、宝永6年(1709年)にも加増を受けた。正徳2年(1712年)には家宣の死去に際しての遺言で加増を受け、最終的には5万4000石の大名となった(諱を清武に改めたのもこの頃と推測される)。そして、館林城の築城などに努める。
しかし藩財政が困窮したため、その再建を目指して重税を強いた。このため、領民の不満が爆発して、享保3年(1718年)に百姓一揆と江戸藩邸への強訴が起こる(館林騒動)。これに対して、清武は百姓側の指導者を死罪に処したが、年貢減免を認めざるを得なくなった。
享保9年(1724年)9月16日、死去した。享年62(満60歳没)。嫡男の清方は早世していたため、尾張徳川家の連枝の高須藩松平家から養嗣子として迎えていた武雅が跡を継いだ。
清武の死により、家光の男系は完全に断絶した。

(越智松平家より)
清武は甲府藩主徳川綱重(甲府徳川家)の次男であるが、はじめ甲府藩士越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)の養子として育てられた。のちに松平の名乗りを許されて越智松平家が成立する。5代将軍徳川綱吉の晩年の1707年に館林藩主として取り立てられ、兄家宣が6代将軍となると5万4千石まで加増された。清武の子清方は父に先立って没したため、尾張徳川家連枝の美濃高須松平家から養子武雅を入れた。武雅も水戸徳川家連枝府中松平家から武元を養子に入れ、越智松平家は以後は実質的に水戸家の血統(徳川頼房の男系子孫)によって占められることになった(その後に養子入りした武揚、武成、武聰の3代の当主も該当する)。
武元の家督相続後すぐに陸奥国棚倉藩に移されるが、間もなく館林に戻る。武元はまた、通常は譜代大名が就く幕府の役職にも親藩ながら就いており、最終的には老中首座を務めた。続く2代も奏者番、寺社奉行といった幕府の役職に就いている。
1836年、5代武厚(斉厚)の時代に越智松平家は石見国浜田6万1千石に移され、ここで所領の固定をみる。しかし第二次長州征討のとき、長州藩兵に敗れて浜田を奪われ、居所を美作国鶴田に移した。廃藩置県後は華族に列し、子爵を授けられた。

(松平清方より)
正徳6年(1716年)に7代将軍・徳川家継が死去した時、父・清武は次期将軍候補に挙がったが、高齢かつ他家に養子に出ていることが理由で、支持を得ることができなかった。清方は年齢的には問題がなかったが、候補者にはならなかった。

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