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本妙寺(巣鴨)遠山金四郎墓

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写真: 本妙寺(巣鴨)遠山金四郎墓

写真: 本妙寺(巣鴨) 写真: 本妙寺(巣鴨)千葉周作墓

mixi記事コピペ――
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遠山左衛門尉景元。北町奉行、南町奉行など。“あの”金さんは超フィクションwwww

2011年11月03日 22:23

簡略経歴――
・寛政5(1793)年生まれ。旗本。
・父は長崎奉行を務めた遠山景晋。
・景晋は永井家から遠山家に養子入りした身だった。後に養父の実子景善が生まれたため、景晋は景善を養子にした。景元出生時には未だ景善の養子手続きをしていなかったため、景元の出生届はその手続が終わった、誕生の翌年9月だった。
・文化6(1809)年、父の通称であった金四郎に改める。青年期は複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送っている。
・文化11(1814)年、堀田一定(主膳)の娘で、当時百人組頭であった堀田一知の妹けいと結婚。堀田伊勢守家は知行4200石で知行500石の遠山家とは釣り合いがない。しかしこの時当主の景晋は長崎奉行で、堀田家は景元の将来性を見込んだとされている。
・文政7(1824)年末、景善が亡くなり、翌文政8(1825)年幕府に出仕、江戸城西之丸の小納戸に勤務して役料300俵を支給され、世子だった徳川家慶の世話を務めた。
・文政12(1829)年4月、景晋の隠居に伴い家督を相続、知行地500石を相続。
・天保3(1832)年、西丸小納戸頭取格。同時に従五位下大隅守叙任。
・天保5(1834)年、西丸小納戸頭取、
・天保6(1835)年、小普請奉行に転任、
・天保7(1836)年、官職を左衛門少尉(左衛門尉)、
・天保8(1837)年、作事奉行、
・天保9(1838)年、勘定奉行(公事方)、

・天保11(1840)年、北町奉行。(関係者:水野忠邦。鳥居耀蔵)
・天保14(1843)年、北町奉行を罷免、大目付に。
・弘化元(1844)年、分限帳改 兼、朝鮮使節来聘御用取扱。
・弘化2(1845)年、南町奉行。(関係者:阿部正弘)
・嘉永5(1852)年、隠居、出家。帰雲と称す。
・安政2(1855)年、他界。



※おまけ――
・“彫り物”を入れていたと言われている。何を彫っていたかばかりテレビで話題になっているが、そもそも「彫り物をしていました」という確証文献は一切存在しない。奉行に入れ墨は論外。
奉行時代、しきりに袖を気にして、めくりあがるとすぐ下ろす癖があったとか。これも伝聞。
・痔持ちで、馬での登城が困難であったため、駕籠での登城を許可されている。本来、景元の身分では駕籠登城は許されない。
・テレビドラマの影響で名奉行として知られるが、名裁きをした記録はほとんどない。ただし、裁判上手の評判は存在している。

※“町奉行”は現代の都知事、警視総監、地方裁判所判事を一手に負わされていた役職。
・地方奉行は市長のようなもの。濫用のおもむきもあり、階級の上下に関わらず、様々な場所、地位に用いられている。
・北町と南町は分権ではなく輪番。
・与力、同心が、警察官、検察官のような存在。
・目明し、岡っ引きは町人。役人が私的に雇っていたに過ぎない存在。民間警備? 架空の存在であるが、銭形平次のような者。

※おまけ――
北町奉行時代――
天保12(1841)年に始まった天保の改革の実施に当たって、12月に町人達を奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈(しゃし)の禁止を命令している。風俗取締りの町触れを出したり寄席の削減を実行したりなど、方針の一部には賛成した。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対し、南町奉行の矢部定謙と共に、老中水野忠邦、目付鳥居耀蔵と対立。
同年9月、景元は水野に伺書を提出している。その内容は、町人への奢侈を禁止していながら武士には適用していないこと、町人に対しても細かな禁止ではなく分相応の振る舞いをしていればそれでよいとする禁止令の緩和を求めるものだった。水野はこの伺書を12代将軍家慶に提出したが、景元の意見は採用されず、さらなる贅沢取締りの法令を景元に町中に出させた。さらに鳥居による策謀で矢部は過去の事件を蒸し返され、天保13(1842)年に罷免・改易され、伊勢桑名藩で死亡する。鳥居が後任の南町奉行になり、景元は1人で水野、鳥居と対立することとなった。

寄席の削減についても水野と対立している。当初景元は禁止項目に入っていた女浄瑠璃を出している寄席の営業続行を水野に伺ったが、水野は寄席の全面撤廃を主張、景元は芸人の失業と日雇い人の娯楽が消える恐れから反対した。結果としては水野の方針より大幅に緩和されはしたが、寄席は一部しか残らず、興行も教育物しか許されなかった。
天保12年11月、水野が鳥居の進言を受けて芝居小屋を廃止しようとした際、景元はこれに反対して浅草猿若町へ小屋を移転するだけに留めた。この景元の動きに感謝した関係者がしきりに景元を賞賛する意味して“遠山の金さん”モノを上演した。鳥居や水野との対立が“遠山=正義、鳥居=悪逆”という構図を作り上げた。(鳥居はこれだけに及ばず、元より江戸っ子からの評判が悪かった)。
他にも株仲間の解散令を町中に流さず、将軍へのお目見え禁止処分を受けたり、床見世(現在の露店に相当する)の取り払いを企てた水野を牽制したり、人返しの法にも反対して実質的に内容を緩和させるなど、ことごとく改革に抵抗する姿勢を保った。
しかし天保14(1843)年、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、大目付になる。地位の上がる栄転であったが、当時は諸大名への伝達役に過ぎない閑職だった。


遠山金四郎記事――
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