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15.06.23.三枝源重郎屋敷跡(墨田区石原2丁目)

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写真: 15.06.23.三枝源重郎屋敷跡(墨田区石原2丁目)

写真: 15.06.23.根来采女家屋敷跡(墨田区石原2丁目) 写真: 15.06.23. 室賀美作守屋敷跡(墨田区亀沢2丁目)

時代変えて佐野亀五郎上屋敷跡。
先の地から500mほど北。屋敷入れ替えさせられてる?

南西から北向き・南東から北向き。

南隣土岐貞次郎屋敷。さらにその南に三好監物屋敷。ここいら調べると驚きの氏姓わんさか。



mixiコメント 2015年06月27日 18:03
コチラの三枝家屋敷が、どちらの三枝家かは分かりませんが……語りたいので語ります(´・Д・)」)))ッシャ
三枝氏──
●三枝勘解由。
昌吉系三枝家。三枝氏宗家(?)。
表高6500石、実高8873石。
所領、陸奥国岩瀬郡・伊豆国賀茂郡に21村。

●三枝宗四郎(または政三郎)。
守吉系(昌貞(守友)系)三枝家。三枝氏本家(宗家? 嫡流)。
表高7500石、実高7998石。
所領、近江国神崎郡・蒲生郡・野洲郡、武蔵国入間郡・葛飾郡・比企郡内に12村。
※2代 守恵は徳川家光の寵愛を受けた。家光逝去に殉死を選んだ。

●三枝主膳(忠次郎)。
昌吉系三枝家分家。
表高4500石、実高3883石。
所領、下総国に5村。


※歴史──
ヤマト王権より甲斐へ派遣された在庁官人(地方官僚。国司の側近、郡司)。
平安期末までは隆盛を誇ったが、当代が暴挙を働き没落。これにより甲斐源氏 武田氏が勢力を伸ばす。三枝氏の名は歴史の表舞台にほとんど現れなくなった。

三枝氏宗家は甲斐源氏18代 武田信虎期に絶える。これを惜しんだ信虎が、庶流の石原氏に名跡を継承させた。これが石原丹波守守綱。
その嫡子 三枝土佐守虎吉は武田氏3代にわたって奉仕、多数の事績を残している。
そして、虎吉嫡子 三枝守友。勘解由左衛門尉。現在は昌貞が正しい諱とされる。武田二十四将のひとり。
※三枝姓ふたたびスターダムに。
※戦国期に名を挙げた三枝氏が、古代豪族の三枝氏の血脈かは不詳である。通字は「守」とされているが、「吉」の可能性大。「昌」はこの後の三枝氏の通字。

三枝昌貞は長篠設楽原合戦で討ち死。
父 虎吉は滅亡まで武田臣下として働いた。のち虎吉は徳川家康に請われ仕官する。
三枝氏嫡流は、虎吉3男 昌吉が継承する。はじめ昌貞嫡男 守吉の名代としてあったが、幼少だったことから昌吉と決められた。
のちに守吉は分家を許され、旗本となる。所領は近江国。
“勘解由”が通称となるのは昌吉嫡男 守昌から。
(守昌が分家を許され──という資料も見た。そうすると守吉が元服、宗家継承後、昌吉が別家を許された? ずっと後見だった? 隠居なし、死没後に家督が相続されている。不詳。)


※「三枝氏」武将家出自辞典m(_ _)m→ http://www2.harimaya.com/sengoku/html/k_saegsa.html
※「三枝クリニック・三枝博士」m(_ _)m→ http://www.aim-corp.co.jp/saigusa/saigusa/history.html


●三枝勘解由守昌──
天正13(1585)〜寛永16年閏11月29日(1640年1月22日)。
三枝昌吉嫡男。
徳川秀忠の小姓となる。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦直前、父と共に会津征伐へ従軍。
上方へ転進後、秀忠軍として上田城攻めに従軍。戦後500石の加増。
慶長19・20(1614・1615)年、大坂の役。戦功にて3500石加増。
元和8(1622)年、父とともに徳川忠長附となる。
寛永元(1624)年、父 三枝土佐守昌吉死去。
遺領(?石)と合わせ田中城1万石を領し、後に5000石を加増される。しかし、陪臣だったために大名とは扱われなかった。
寛永9(1632)年、忠長改易に連座、陸奥棚倉藩 内藤信照に預けられる。
寛永13(1636)年、赦免。幕臣となる。
寛永15(1638)年、安房国安房郡、平群郡、朝夷郡の3郡に1万石を与えられた。諸侯に列し、安房三枝藩立藩。
寛永16(1639)年、急死。享年55。

後継の守全(もりあきら)は、遺領1万石のうち3000石を次弟 諏訪頼増に分与し、自身は7000石を領する寄合旗本となった。
安房国三枝藩は立藩からわずか2年で廃藩となった。


●三枝昌貞──
天文6(1537)年〜天正3年5月21日(1575年6月29日)。享年39。
別称、三枝宗四郎、勘解由左衛門尉、山県善右衛門。
父、三枝虎吉。母、?
弟、昌貞、守義、昌吉、守光。
室、山県昌景娘?
子、守吉

説:昌貞は山県昌景と同族の山県氏の出自で、三枝氏の養子になった。(軍艦)
説:山県昌景の娘婿(後に養子)となり山県善右衛門尉を名乗った。(寛永諸家系図伝)

武田晴信奥近習。のちに足軽大将。騎馬30騎、足軽70人持ち。(軍艦)
弘治年間(1555〜1557)、信玄の勘気を受け一時蟄居していた。(寛永伝)
永禄4(1561)年3月、八幡原合戦が文書上の初出。これにおける戦功で知行を与えられている。
永禄6(1563)年、叔父 守直(新十郎)の遺児養育と後見を命じられる。
永禄8(1565)年10月、義信事件。
永禄9(1566)年8月、忠誠を宣誓した起請文を信濃国生島足島神社へ奉納(下之郷起請文)。ここでは長坂昌国(源五郎)、矢島義房、佐藤民部少輔らとともに昌貞の名が見られる。
永禄10(1567)年8月、ふたたび起請文徴収(家臣一同)。昌貞は2度とも提出しており、義信に近い立場だったと考えられている。

永禄11(1568)年、この頃の文書から「山県勘解由左衛門尉」を称している。
永禄11(1568)年、駿河侵攻。
花沢城攻めで一番槍の武功を立て、信玄から感状を受けている。
※山県昌景から名刀「吉光」を与えられた説。
※永禄11年(推定)の「武田信玄陣立書」(山梨県立博物館所蔵)では、昌貞は弓衆を率いている。
※同じ近習の武藤喜兵衛(真田昌幸)、曽根昌世らとともに昌貞の存在が重要視されている。(軍艦)
永禄12(1569)年8月、甲斐塩後郷(甲州市塩山)において代官を務めている。その後も奉行衆、武田氏の御料所代官などを歴任した。
※昌貞関係文書にて、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められる。よって寛永伝に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められる。
昌貞関係文書は信玄直筆のものが多く、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている。だが昌貞は順調に加増されていっており、信玄と昌貞の親近性がうかがえると考察される。

天正3(1575)年、長篠合戦。河窪信実を大将に、長篠城内を監視できる鳶ノ巣山砦の守備隊に配属された(名和宗安、飯尾助人、五味高重など)。昌貞は副将として鳶ノ巣山麓の「姥が懐(うばがふところ)」に設けられた支砦に弟たちと詰めていた。
5月21日早朝、酒井忠次奇襲隊の攻撃。無警戒だった尾根伝いの背後からだった。
鳶ノ巣山本砦、昌貞が守る支砦4つは兵数で劣り、奇襲による動揺から相互連携に欠くなど各砦は分断されて防戦に努めねばならなかった。
昌貞の守る姥が懐だけが山頂や尾根に構えられた砦ではなかった為、敵襲の察知が一段と遅れたともいう。本多豊後守広孝の軍勢に逆落とし同然に頭上より攻めかかられたが、昌貞たちは数に劣りながらも奮戦目覚ましかったと伝えられる。敵方に隣砦「君ヶ伏床」を落とした竹谷松平5代 清宗が加わりさらに劣勢となった。武田方 鳶ノ巣山砦守備隊に救援は無く、昌貞、次弟 源左衛門守義、4弟 甚太郎守光みな討ち死となった。
※信実は小宮山隼人を指揮し、深溝松平3代 伊忠や野田菅沼定盈などを4度も押し返した。また東条松平3代 家忠の率いる部隊が勢い任せに砦へ侵入しようとするのも凌いでいたが、これは陽動で、数に勝る酒井忠次配下の別働隊が別口から侵入。やがて姥が懐、君ヶ伏所等の支砦を壊滅させた竹谷松平5代 清宗や本多豊後守広孝(本田康重父。広孝系本多家・康重系本多家)などの別働隊が本砦への増援に加わり、信実は討ち取られた。
※河窪武田氏→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1938662436&owner_id=32815602
※深溝松平氏→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2006517499&owner_id=32815602
(伊忠→家忠→忠利)
※東条松平氏→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1888825400&owner_id=32815602
※本多豊後守家・豊後守系本多家・本多飯山家・正経系本多家・本多彦次郎家→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1511163369&owner_id=32815602

昌貞が討たれた「姥が懐」の付近(愛知県新城市乗本字東畑)に、「三枝兄弟」の墓碑が所在している。
首塚、遺体の処置・所在、正式な墓地は不詳。近年、仁勝寺に供養塔が造立されている。


●三枝虎吉──
永正8(1511)年〜天正12年4月12日(1584年5月21日)。享年74.
通称、源八郎。
官途名、右衛門尉、土佐守。
法名、栄富斎。
戒名、三星院前土佐大守永普斎宝山玄玖居士。
父、三枝守綱(石原氏)。母、丘頂院。
室、永光院(山県昌景娘)(?)
子、昌貞、守義、昌吉、守光。

56騎持ち侍大将。(軍艦・寛永伝)
虎の字は甲斐武田氏18代 信虎の偏諱だという(?)。
弘治2(1556)年、高野山成慶院に舅の追善供養を依頼している。
弘治3(1557)年、長坂虎房(光堅)、室住虎光らと役銭徴収を行っている。奉行職であったと見られる。
永禄7(1564)年、西上野侵攻。
永禄13(1570)年、駿河侵攻。こののち駿河田中城に在城している。
天正10(1582)年、甲州征伐。このとき依田信蕃とともに駿河田中城を守備していた。
武田氏滅亡後は徳川氏に仕え、知行宛行状において工藤喜盛・市川元松・石原昌明らと最初期の徳川四奉行に就任している(天正10年12月13日付徳川家奉行人連署状「田辺家文書」)。
それからまもなく、虎吉は隠居。四奉行の後任は桜井信忠が着任。




郡司・郡衙――
律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官。
郡司は郡衙(=役所)で政務を執ったが、しばしば私邸等を郡衙として用いた。このような場合を郡家(ぐうけ・ぐんげ・こおげ)と呼ばれた。

鎌倉時代――国内に並列する荘園、郡、郷、保などは、武士たちの基礎的な領地の単位。管理者である荘司、郡司、郷司、保司らの多くが御家人となり、地頭に任命された。

戦国時代――戦国大名が支配領域を古代以来の国郡制とは異なる独自の法度で領域分割したもの。各郡ごとに郡代を配置した。

江戸時代――幕府や各藩では地方(じかた)の統治に際して郡代や郡奉行といった役職を置いていた。
幕府の郡代は広域の天領を管轄する役職。その管轄範囲は歴史的地域区分としての郡よりも広大。諸藩(大藩)では独自の地方区分を設けていた。

現代――現在の郡は、住所表記や、広域連合体(広域行政圏)の範囲、都道府県議会選挙区の区割などに用いられるに留まる。そのため、それ以上の積極的な意義は薄い。郡の廃置分合は、都道府県知事が権限を持ち、都道府県の議会の議決を経て定め、総務大臣に届け出ることとなっている(地方自治法第259条)。




長篠設楽原記事──
蕃松院→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000094623018&owner_id=32815602

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