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服部坂(小日向)

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写真: 服部坂(小日向)

写真: 服部坂(小日向) 写真: 服部坂(小日向)

mixiフォトコメント――
https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1906851759&owner_id=32815602
●服部権太夫――
服部権太夫政信。
父は服部与十郎政季。徳川家康の旗本。永禄3(1560)年に仕官したとされる。
天正18(1590)年、小田原攻めにおいて本多忠勝旗下で御使番。
天正20(1592)年2月、関東移封にともない、武蔵国太田庄の内(現埼玉県熊谷市)3000石を知行地として賜る。
現埼玉県宮代町(武州須賀村)に600石を知行地として賜る。
慶長5(1600)年、上杉征伐参陣。のち、近江国長浜(現滋賀県長浜市)に1000石を賜る。
政信――
関ヶ原合戦に参陣し、のち下総国臼井に500石を賜る。
元和元(1615)年、大坂冬(前年)・夏参陣。父 与十郎死去。遺領3000石を相続、併せて3500石を領す。
元和5(1619)年、遠江国今切関(新居関所。静岡県浜名郡新居町)の関所番下命。500石加増、所領も遠江国敷智郡(静岡県浜松市一部・湖西市一部)へまとめられ移された。
(浜松市西区志都呂町に、弟の杢助政重とともに詰めた志都呂陣屋跡碑、浜松市西区大久保町3280にある大窪神社はかつて大久保陣屋が構えられていた土地で、やはり服部氏が詰めた屋敷である。)

(どのHPを覗きに行っても、ただ「服部権太夫の屋敷跡」と記しているだけ。そう書いて服部坂を紹介している人たちは、この権太夫殿をどこまで御存じなのだろうか…。過去にもこういったケース(人物)はたくさんあって。というかほとんどがそう。掘り下げている人は少ない。まあ某自身も、興味・関心がわく人物でなければしないのだけどwwwww その視点で某のアルバムを見ると、藩主・大名等々の紹介の文量で関心の高さが分かるという…wwww 知名度の高い人物や某が詳細をよく知る人物は意図的に手を抜いているが…vvv )

服部家の系譜は諸説紛々あり、いずれも1級史料なく信憑性に欠ける。それでも真実性の高いものを綴る。
全国に分布している服部姓は、系譜をたどっていくと名が重なったり違ったり、まったく違うこともあるが、すべて伊賀国につながる。名がかぶるようなら同族の可能性は高い。どこの服部家も家紋は異なるが、いずれも「矢」・「車輪」が使用されている。
「服部」姓は、古代職業部から発祥した。元は「機織(はたおり)」部。はたおり、はとりべ、はとり、「はっとり」はずいぶん後世に至ってからだという。服織、服取、羽鳥、羽取、八鳥、八取はこの変換だそうだ。衣服にまつわる姓名で、現代に残る最大人口がはっとりだそう。(「織田」もコレにあたる? 織田姓は越前国織田庄という地名から。)
ただし、“服部郷出身者”というとニュアンスが異なる。伊賀国に、この職能集団(生産者集団)を集め、服部郷が建設された。5世紀半ばに設置されてから7世紀までに、「織部」の許可証を得た服部サンは1600人ほどもいたという。服部姓の中の有力者が、畿内をはじめに、当時の全国の文化圏へ進出していった。
(大和国・摂津国・山城国・近江国・因幡国・美濃国・遠江国・駿河国・武蔵国・総州・常陸国・越前国・加賀国・奥羽国)

政信サンの系譜は――
服部正成(2代半蔵)と祖を同じくしている。源平合戦後に姓を改めてのち3代 千賀地保行(ちがちやすゆき。この服部家に分家が生まれる)の子らから3家に分かれている。そのひとつ。ここで半蔵家とは分かれている。
(だが6代後に同名? の人物がおり、不確か。)
政信サンに近いところで――
服部友貞。祖父の兄にあたる。桶狭間で今川軍にいた。伊勢国長島城代となり(北畠家臣? その家臣の伊藤家家臣?)、やはり織田信長と戦火を交える。敗れ、自害。
服部伊賀守宗純。南北朝時代、南朝で戦った吉野壱拾壱党七名字(11党7名字)のひとり。
(新田四家――大橋貞元、岡本高家、山川重祐、恒川信規。公家庶流――堀田正重、平野業忠、服部宗純、鈴木重政、真野通資、光賀為長、河村秀清――の七家。)
伊勢河内服部党。宗純サンを調べていくと、半蔵家と血筋が異なっていく……┐(-△-)┌

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